箏の歴史
箏は奈良時代(710-740)に中国の唐から伝えられ、当時の都、京都を中心に皇帝や貴族の間で雅楽を演奏する楽器の一つとして楽しまれていた。雅楽で箏が惹かれる様子は当時の古典文学、枕草子、源氏物語、平家物語等に記述されている。
平安時代(794-1191)には「そう(箏)」「そう(箏)のこと」、あるいは「きん(琴)のこと」「わごと(和琴)のこと」などと呼ばれていた。
箏と琴が混同されがちだが、箏は現在にも使われている柱を利用している楽器をさし、琴は柱がない楽器のことをいう。和琴は中国から伝えられた琴とは又別の琴で、日本で古代以前より弾かれていた。
筝曲は大きく分けて、1.宮廷箏曲、2.筑紫箏曲、3.当道筝曲 の3種類がある。 雅楽は平安時代の天皇や宮廷人たちが楽しんだ筝曲である。
平安時代(794-1191)には「そう(箏)」「そう(箏)のこと」、あるいは「きん(琴)のこと」「わごと(和琴)のこと」などと呼ばれていた。
箏と琴が混同されがちだが、箏は現在にも使われている柱を利用している楽器をさし、琴は柱がない楽器のことをいう。和琴は中国から伝えられた琴とは又別の琴で、日本で古代以前より弾かれていた。
筝曲は大きく分けて、1.宮廷箏曲、2.筑紫箏曲、3.当道筝曲 の3種類がある。 雅楽は平安時代の天皇や宮廷人たちが楽しんだ筝曲である。
Gagaku
一般への広まり
鎌倉時代(1192-1333)に入り、貴族社会から武家社会へと変化すると、箏も京都を含む近畿から九州地方へと移り、その後雅楽は寺社、僧侶等により、受け伝えられて行った。 室町時代後期に入ると、久留米(現在の福岡県久留米市)で浄土宗善導寺の僧侶、賢順(1574-1636)により新しい曲とスタイル、筑紫流筝曲、が生み出された。 筑紫筝曲は主に佐賀藩の武士によって楽しまれた筝曲である。
当道筝曲は江戸時代初期に当道所属の盲人たちによってはじめられた筝曲である。筑波流筝曲が生み出されてから八十年後には賢順の弟子であった法水に手ほどきを受けた八橋検校により新たに八橋流筝曲が作られた。八橋検校は新たな調弦法、平調子や印旋律を創りだしたりリズムを改めたりして、今までの筑波流にそれらを加え箏を武士だけでなくさらに盲目の男性も含め一般民衆にまで広めた。八橋検校の弟子であった北島検校はさらに八橋流を改訂し、さらに新しいスタイルを生田検校(1656-1715)に受け継いだ。生田検校は生田流の演奏法に合わせた爪の改良を行った。その約百年後、江戸にて山田流が山田検校により開発された。江戸時代後期になると箏はさらに民衆化された。 盲人が演奏者だったので、楽譜はあまり使用されなかったが、歌の歌詞を記した歌詞集は利用されていた。
明治以前に作曲された曲は古典曲とされ、明治以降に作曲された曲は近代箏曲と分類される。西洋から五線譜が導入され、そのためか各家元から書式の楽譜が考案され、筝曲が独習できるようになった。
宮城道雄 (1894-1956)は近代箏曲の父と呼ばれ、明治時代に西洋楽器が沢山日本に導入されたこともあり、西洋音楽の影響を受けた水の変態、瀬音、春の海等数々の名作を生み出したと伴に十七絃や八十絃等の開発もした。その他にも数々の革新を行ったがその代表的な事としては次のようなものが上げられる。 和楽器による四十奏曲の作曲、邦楽会でカノン形式をを採用、変奏曲形式を採用し作曲、三拍子の曲を作曲、洋楽曲を和楽器で演奏した等で彼の作曲した作品は200作品以上にも及ぶ。現在では山田流以外の流儀は皆生田流とされている。
年表
当道筝曲は江戸時代初期に当道所属の盲人たちによってはじめられた筝曲である。筑波流筝曲が生み出されてから八十年後には賢順の弟子であった法水に手ほどきを受けた八橋検校により新たに八橋流筝曲が作られた。八橋検校は新たな調弦法、平調子や印旋律を創りだしたりリズムを改めたりして、今までの筑波流にそれらを加え箏を武士だけでなくさらに盲目の男性も含め一般民衆にまで広めた。八橋検校の弟子であった北島検校はさらに八橋流を改訂し、さらに新しいスタイルを生田検校(1656-1715)に受け継いだ。生田検校は生田流の演奏法に合わせた爪の改良を行った。その約百年後、江戸にて山田流が山田検校により開発された。江戸時代後期になると箏はさらに民衆化された。 盲人が演奏者だったので、楽譜はあまり使用されなかったが、歌の歌詞を記した歌詞集は利用されていた。
明治以前に作曲された曲は古典曲とされ、明治以降に作曲された曲は近代箏曲と分類される。西洋から五線譜が導入され、そのためか各家元から書式の楽譜が考案され、筝曲が独習できるようになった。
宮城道雄 (1894-1956)は近代箏曲の父と呼ばれ、明治時代に西洋楽器が沢山日本に導入されたこともあり、西洋音楽の影響を受けた水の変態、瀬音、春の海等数々の名作を生み出したと伴に十七絃や八十絃等の開発もした。その他にも数々の革新を行ったがその代表的な事としては次のようなものが上げられる。 和楽器による四十奏曲の作曲、邦楽会でカノン形式をを採用、変奏曲形式を採用し作曲、三拍子の曲を作曲、洋楽曲を和楽器で演奏した等で彼の作曲した作品は200作品以上にも及ぶ。現在では山田流以外の流儀は皆生田流とされている。
年表